AIの感情

何となく妄想したこと。自分は感動することがないよな、とふと気が付いてそこから思索してみた。いつも通り飛躍たっぷりなので意味のある思索かは不明。その気が付いたきっかけがロボットの小説だったことが思索の根本。
何も学習していないAIは入力を与えられても感情を出力しない。十分に教育されたAIは入力から過去のデータベースを呼び出して、その結果として感情を出力する。その「教育」というのは人間と人間との接触や本のこと。
それでは人間について考えるとどうなのか。教育されていない人間は良く分からないのでスルー。教育された人間が出力する感情は、単に過去のデータベースの総合なのか、それとも「心」によって生み出されたものなのか。それを知るためにはデータベースとは全く違った状況に遭遇すればよい。しかし、教育が十分であればよほどの非常識なことが起きない限りデータベースが対応することが出来る。よって教育が十分な人、特に本を多く読んでいる人は自分の感情がデータの集積によるものなのか、それとも自分の「心」によるものなのかの区別が困難である。


さて、ここで自分についてこのことを適用してみる。
もともと本の中では「人が物語によって感動する」ということが描かれることは多くない。自分の把握する記憶の中にもほとんどない。そのために感動することがないのではないか。
また、自分の感情や善悪の基準には、思い当たる記憶が存在することが多い。判断の基準がそういった論理であれば、より正しいと思われる論理に書き換わるのはあって不思議ではなく、それは事物に影響を受けやすかった自分の過去にあてはまる。
さあ果たして人間の心はデータベースの集積でありプログラムによって実現が可能なものなのか、それとも自分の心が機械であるのか。